夏到来、幽霊家庭教師はじめました
「君が天国に行くためには、困った人を助けなければいけない」と天使は言う。
 幽霊になってしまった僕はふわふわと夜空に浮かんでいる。
「命を粗末にしたのは君だ。その償いはきちんとしてもらう」
 命を粗末に――その言葉を聞いて僕は自分の人生を思い返す。

 僕は長年ひたすら真面目に仕事をしていた。少々の風邪で休むこともなかったし、電車がレールの上を走るように、言われた通りの仕事をこなした。しかし、ある日自分の進んできた道を見て激しい虚しさを覚えた。なんてつまらない人生だったんだろう、と。
 無断で仕事を休み、慣れない強い酒を飲んだ。「このまま死んだ方が良いのかもしれない」と思い、踊るように道路へ飛び出た時、トラックに轢かれてしまった。数秒後、幽霊になってしまった僕は気付く。「死んだ方が良いのかもしれない」とは思っていたが、決して「死にたい」と思っていなかったことに。
「それで、僕はどんな人を助ければいいんでしょうか?」
「着いてきなさい」
 天使は僕の手を引き、街の上を飛翔する。そして、郊外にある家の前に降り立つ。
「ここに勉強のできない子供がいる。君はその子の夏休みの宿題が終わるよう、家庭教師をするんだ」と天使は言う。天使は僕の体に触れ、小さな声で呪文を唱える。するとふわふわしていた体に懐かしい感覚が蘇ってくる。
「これで君は普通の人間と同じだ。期限は今日から夏休みが終わるまでの一週間。必ず彼の宿題を終わらすんだ」
 僕は上司の指示を聞いたかのように頷く。

「先生、この問題が分かりません」
 天使の力のおかげか、問題なく家に迎えられた。しかし、その子供には必要な学力が全く備わっていない。
「これはね。まず右辺の式を展開して……」
 と順を追って説明しても、彼は全く理解していないように見える。同じ解法の問題に差しかかっても「この問題が分かりません」と呪文を唱えるかのように繰り返すのだ。その上、『夏の総復習』と題された宿題の異常な難しさが追い打ちをかける。「学生の宿題程度なら」と高をくくっていたのに。教えるためにはまず僕が必死に勉強する必要があった。

「よし、これで完璧に教えられる」と僕は彼にかりた教科書を勢いよく机に叩きつける。
 気付けばもう6日目になっている。相変わらず宿題は少しも進んでいないが、全て理解した上で教えるので、明日の期限にはなんとか間に合うだろう。早速、僕は彼に宿題を教え始める。
「先生、この問題が分かりません」
 初日と全く変わらず彼は答える。僕は信じられない彼の言動に驚く。彼の顔はあきらめの表情だけが占領しており、「1+1は?」という質問でさえ答えることができないように思えた。
 僕は壁に掛けられた時計を見る。このままでは絶対に間に合わない。僕はただ一つの解決策があることに気付く。
「ねえ。これからやることは誰にも言ってはいけないよ?」と僕は言う。
 彼はこくりと頷き、シャープペンシルを差しだす。どうやら彼は最初から僕にやらせるつもりだったらしい。どうせ天使は僕がずるをしたことなんて見ていないだろう。僕は手に入れた知識をフル稼働させて宿題を代わりに終わらせることにした。

「おめでとうございます!」
 と天使の声が高らかと響き渡る。なんとか期限までに宿題を終わらせた後、彼の家を出てすぐ天使の迎えが来たのだ。
「約束通り子供を助けたよ」と僕はなんとか上手く笑う。
「君はなんだか頼もしくなったように見える。この後、あの世で正式な審判があると思う。でも君なら間違いなく天国行きだよ」と天使は爽やかな笑みを浮かべる。そして再び呪文を唱えると僕の体は重力から解放され、舞い上がっていく。少しの罪の重さを感じながら。そして、次の人生はもう少し上手く生きていけるではないか、と思いながら。

 舞い上がっていった男を見送ると天使は姿を変える。
「全く、最後まで私だと気付かなかったようだな」と天使は言う。それは男に家庭教師をしてもらっていた子供の姿だ。天使は郊外にある家を一瞬で消し去る。そろそろ神様のもとへ向かう時間だ。天使は再び姿を変え、羽を大きく広げて飛び立つ。

「夏休みに出した宿題の結果を報告してもらおう。ちゃんと一人の男の審判を下せたのかな?」と神様は言う。
 神様の前に跪いた天使は、「はい」と声を出す。「して、結果はどうだったんだ?」
「もちろん天国行きです」
「そうかそうか。それは良い魂に巡り合ったのだな」と神様は満足そうに頷き、続ける。
「それで『夏の総復習』の方は済んだのかな? 君は実技は得意なようだが筆記は苦手なようだったから」
「もちろん完成しております」と天使はにやりと笑う。
「君はなんだか頼もしくなったように見える」
 天使は一礼して神様の元を去る。そして「結局少しずるい人間が幸せになれるのだろう」と思った。あの世でもこの世でも。
	

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