僕は動けない
 僕が動けなくなった日は、いつものように明日からやって来た。
 朝は卵サンドとサラダを食べ、コーヒー牛乳を飲んだ。僕は大人だが大人の味は嫌いなのだ。
コーヒーはやはりホワイトに限る。洗面所でもう一人の自分を見ながらひげを剃り、髪を整えた。そこで僕は一言。全くお前には見飽きたよ。
 準備を終えた僕はいざ、会社へと歩いて向かった。車の免許は持っているのだが、そのものがない。それに金を食ってしまう車より、卵サンドを食う僕の方がコストもかからない。
 朝の街はまだ眠たそうな瞳で僕を待ち受けていた。すれ違うのはいつも知らない人だが、もう毎朝食べているサラダのように新鮮さを感じない。サラダに使うレタスはいつも別のものだが、見た目は何も変わらないように感じる。それと同じなのだ。

 レタスとすれ違いながら、僕は歩く。年を取るごとに会社までの道が伸びているのじゃないかという疑いを持つ。昔はこのぐらいの道を歩くだけなら大したことはなかったのに、今はもう息が切れてしまう。ようやく会社の前までやってきた。あとはこの信号が青に色付くのを待つだけだ。
 僕は無意味に長く降る冬の雪のような信号が嫌いである。もちろんここの信号のことだ。今年のクリスマスにはサンタクロースという金持ちで親切な老人に、ここに歩道橋を作ってくれるようお願いしてみよう。
 信号が変わったと同時に、僕は先頭で向こう岸のゴールへと向かう。
 道路の真ん中へ差し掛かろうとしたときだった。目の前から歩いて来た女とふと目が合った。
 「あっ」
 その女は僕を見ながら言う。なんだろう? 僕は顔に卵サンドでも付いているのか、と聞こうとした。しかしその言葉は喉に引っ掛かったラムネのように口から出てこない。喉がおかしくなったと思って喉を触ろうとした。しかし今度は手が動かない。ならばとにかく向こう側まで行こうと思って、足を動かしてみようとした。しかし足も動かない。
 僕は何の前触れも無くやって来るペーパーテストのように、動けなくなってしまった。

 僕は糸を切られ氷付けにされたマリオネットのようになった。早く会社に行かなければいけないのに。動けない視界の中で僕はあることに気付く。風になびかない街路樹、永遠に青の信号、音を盗まれた街並み、不自然なポーズをとる人々、口を開いたままの目の前の女。世界も全く動いていないのだ。動いているのは僕の思考だけのようだった。
 どこかの漫画で時間を止めてしまう男がいたが僕はそんな男じゃないし、そんな友達は知らない。そういえば、今日会社で会議があるのを思い出した。資料を忘れたかもしれないのだが、それを確かめるために鞄を開けない。この状況で背中がかゆくなったらどうしようと思ったが、時間も止まっているので、かゆくなる時間などないだろうと思い、その心配は消えた。
 僕が動けなくなって五分ほど経った。もちろんこれは僕の中でということである。暇なので次の休日に何をするかを決めようとした。最近彼女と会っていないので、久しぶりに会うことにしよう。仕事の都合上、僕と彼女はなかなか会えない関係なのだ。その日の夜は和食なんかがいい。
 彼女とのデートのシュミレーションを頭で行う。しかし、彼女を家の前までタクシーで送ってもまだ僕と世界は、スイッチを潰されたストップウォッチのように動けなかった。

 次は彼女との未来まで考えてみることにした。星のパレードの中、僕は彼女にプロポーズをする。
「いいわよ」
 彼女は一呼吸置いてこう返事をする。その一呼吸を僕は時間が止まったように待つのだ。
 結婚式は個性的な場所がいい。野外なんかはどうだろう。晴れた空の中、僕は彼女と永遠を誓いあう。なかなか悪くない演出だ。
 そのうち子供が二人も生まれ、年金が支給され始めた。僕はがんになっても手術はしない。お腹を切られて薬漬けになるなら、潔く死んだほうがましだ。家族に看取られながら僕は頭の中で死を迎える。なのに僕は未だに動けない。

 未来予想図を設計し尽した僕は、目の前の女をよく見てみた。よく見るとなんだか知っている顔の気がした。どことなく、小学校のときに訪れた僕の初恋の子に似ている。名前はいったいなんだっただろうか。思い出せない。時の流れはそういう大切な事さえ僕の記憶の中央処理装置の奥底へと送ってしまったのだ。
 それに彼女がその子だと限らない。僕の知っている彼女は小学生であり、今の彼女ではない。しかし彼女は僕に気付いたからこそ、あっと言ったのかもしれない。そしてそういう素敵で奇跡的な出会いが、僕と世界を急に止めてしまったかもしれない。そういうファンタジーも十分ありえる話だな、と僕は思う。

 好きだった彼女のことを考えてると、たまらなく昔が懐かしくなってきた。海に沈む財宝を探すように僕は懐かしい日々を思い出そうとした。僕は記憶の深い海に入り、思い出の詰まった宝箱を見つけた。
 僕の物心ついたのは多分幼稚園のときだ。その頃の記憶は、テレビを見ながら一時間動かし続けたルービックキューブみたいにバラバラだ。遊園地で観覧車に乗ったことを覚えている。あの頃は高い所が大好きだったな。動物園のゴリラ、水族館のイルカ、裏山の秘密基地、補助付きの自転車、覚えている。
 でも、きちんと記憶がつながるのはその子に恋をしたときからであろう。恥ずかしくて、話しかけれなかったこと、向こうから話しかけてくれたこと、少しだけ重なっていた帰り道を一緒に帰ったこと、覚えている。宝箱はまだまだ海の底に沈んでいた。
 僕は、僕が僕であると気付いてから今に至るまでの思い出を、味のなくなったチューインガムを噛む様に思い出す。噛み締めたその思い出は、普段忘れていたものばかりであった。常に先の道ばかり見つめていたので後ろの靴の軌跡なんて見向きもしなかった。それに靴についたガムなんて一つも気付かないでいたのだ。この奇跡のような出来事のおかげで僕は自分を見つめ直すことができたように感じる。なんだか僕の生きてきた人生という壮大で長い夢を見たような気分だった。
 そのとき。そのときだった。生まれ始めた音、懐かしい世界の匂い、右の頬に当たる風、初恋の彼女。そう、世界は再びゆっくりと動き出したのだ。

 世界はどんどん加速し、すでにいつもと変わらない川の流れを取り戻しつつあった。目の前の女は言う。
「ぶない」
 僕は彼女が何を言っているのか理解できない。ぶない、とは何なのだろう。右頬に当たる風はさらに強くなっていく。
 僕はもう一度頭の辞書の全ページを高速で検索してみたが、やはり知らないものは知らない。最近流行っている言葉でもなさそうだ。
 その言葉と時間が止まる前の、あっという言葉とを繋ぎ合わせるまでには、少々の時間がかかった。なにせ僕はさっきまで、自分の人生を振り返る走馬灯のような長い夢を見ていたのだから。
 右頬に当たる風はスピードを増す車のように強くなる。それは風というより圧力に変わる。右を見ると圧力そのものがすぐ近くまで来ていた。どうやら動けなくなる前からすでに僕に向かってきていたみたいである。僕の運命は鍋の底に張り付いてしまった二日目のカレーのように、すでに変えられない状況で固定されていたのだ。そうして、僕は信号無視で突っ込んでくるトラックという圧力を見るのをやめた。
 初恋の彼女の方を向き直り、少し笑う。
 ゆっくり目を閉じた。そういうことだったのだ。
	

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