レース
 わたしは走っている。
 今順位は何位ぐらいだろう? こう選手の数が多くては自分の順位さえ分からない。
左、右、前、後。狂ってしまった方位磁石のように辺りを見回すわたし。でも順位なんてわからなくてもいいの。わたしの目標は完走することだもん。たしかに一位になってみたいけど、あくまで目標は完走すること。
 走っている道はゴールまでの一本道。でもまだまだゴールなんて見えない。逆に後ろを見てもスタート地点も見えない。周りには人がいっぱいいるがこう長いレースだとなんだか世界中でわたしだけが置いてけぼりをくらったような気分になる。
 横目にわたしの応援団の姿が見えた。応援団が見えるとそんな憂鬱な気分もふっとんじゃう。わたしは上に来ているTシャツの袖を女子バレー日本代表のようにまくり上げ、少しペースを上げて走り出した。
 僕は走っている。
 前の信号がもうすぐ赤になろうとしていたのだ。気分だけは陸上短距離ランナーになってなんとか向かい側の歩道というゴールテープを切る。これだけで汗が出た。もうかれこれ運動する時間もとれないのだ。会社に入ってからは息する暇もないぐらい忙しい。
 会社に戻った僕は契約の取れなかったことについてこっぴどく叱られた。上司の言う言葉は何一つ僕の耳には入ってこない。そもそも契約が取れないのは僕のせいじゃない。商品が悪いんだ。いくら耳に入ってこないからと言っても、さすがにむかむかしてくる。さあ今日もまた文句を言ってやるとしよう。
「すいませんでした」
 これが僕流の文句の言い方だ。相手も気持ちよく納得してくれる。
 こんな僕だが子供の頃から色々夢があった。パイロットや警察官になりたかった。スポーツ選手も悪くない。例えばマラソンランナーとかね。美人の奥さんもほしかった。そして奥さんに似た美人の娘。芸のできる犬。4LDKの庭付き一戸建て。家は閑静な住宅街にあると言う事はない。
 そんな夢の詰まった鞄は社会のビックウェーブの波状攻撃でぐちゃぐちゃに壊れてしまった。
何とも悲しいことだ。今ある鞄は形而上学的な会社の資料しか詰まっていない。
 そして、仕事を終えた僕は夜の街へ歩き出した。

 わたしは前の選手たちを見つめた。それはさながらビックウェーブのようだった。それもしかたがないように思う。わたしの知ってる限りの人という人はみんな選手なのだ。生まれてこの方選手以外の人といえば、選手たちの応援団ぐらいのものだ。そういう人しか知らないのは生まれてからずっと走ってばっかりだからかもしれない。もう何十年も走ってきたのだ。そして物心ついたときには、わたしの応援団がいた。もしかしたら生まれたときからいたのかもしれない。応援団がいたからがんばってこれたのだ。そう、わたしは応援団のために走っているのだ。これからも応援団のためにずっと走っていく。
 給水場が見えた。これはわたしのための給水場。そこにはもちろんわたしのための特製ドリンク。応援団から一週間に数回特製ドリンクをもらえる。周りの選手はうらめしそうにわたしを見てる。ふふ、いいでしょ。
 わたしは飲み終わった特製ドリンクの容器を放り投げた。放り投げた容器は物理法則に従い落下し、地面に辿り着いた。
 ああ、わたしはゴールまであとどれだけ走ったら辿り着くのかな。

 ヤケ酒を飲んだ僕は小川を流れる笹の葉のように歩く。週に数回、酒を飲みまくるのはすでに習慣化していた。
 なんとか家に到着した僕は、鍵を開けて部屋に入る。待っているのは暗闇という奥さん。もちろんご飯なんぞ作ってはくれない。僕の奥さんは無口で不器用なのだ。何よりもまずお風呂がいいね。
 洗面所で服を脱いでいると鏡に映った僕を見た。お腹が割れるのも時間の問題だ。もちろん横割れの方だ。昔はマラソンをしてたので引き締まった体をしていた。そのときの僕が見たら怒るだろうな。ずっと縦に割れていたのにってね。
 風呂から出た僕は目覚ましをセットして寝ることにした。いつもより少しだけ起きる時間を早くしようと思った。明日から朝のジョギングをしよう。僕は娘ができたとき、太ってるお父さんなんて嫌い、なんて言われたくないのだ。

 今日は応援団がいない。最近はいつも来てくれていたのに。わたしだけの応援団。ただ一人だけの応援団。応援団の顔が見れないと少しやる気がなくなってくる。ちょっと歩こうかしら。歩みを止めることはルールで許されていないのでとりあえず動かなくちゃいけない。
 結局一週間してもは応援団は来てくれなかった。応援団が一名っていうのも問題だけどこれもルールで決まっているのだ。なんでこんなルール作るのよ、全く。
 と、横を見るとあの人の顔が見えた。そして声援が聞こてきた。わたしの名前を呼びながらがんばれって言っている。ふふ、やっぱりレースはこうでなくちゃ。ゆっくり動いていたわたしの足は信号待ちを終えた路面電車のように加速していく。あの人が見てくれたらわたし、いつまでも走り続けれる。

 僕は坊主になった。もちろんこれはメタファー上でのことだ。ただし三日ではなく一週間であった。
 朝のジョギングもなかなか楽しかったが、気付けば目覚まし時計はまた、いつもの時間にベルを鳴らしていた。継続は力なり、というのは僕の辞書にはどこにも載っていない。きっと編集段階でそんな単語は削除してしまったのだ。ベルを止め着替える。新聞を見ながらバターたっぷりの食パンを食べる。そしていつもの朝のように家を出た。
 会社に到着するまで僕はすっかり今日の打ち上げのことを忘れていた。僕が数社に持ち込んだ悪い商品もなんとか契約できたのだ。ようするにその成功に乾杯しようということだ。みんなことあるごとに理由をつけて飲みたがる。そんなひねくれた考え方の僕も今日はいつものヤケ酒の倍の倍も飲んでやろうと思った。

 すごい声援が聞こえてくる。わたしの足はそれに比例する二次関数のように速くなっていった。
「がんばれ! ……がんばれ!」
 あの人はさらに特製ドリンクをわたしに何本もくれた。どんどん飲むわたし。どんどん速くなるわたし。このまま一気にゴールまでいけるんじゃないかという気がした。でも普通選手はあと何十年も走るものなのだ。そう思うと気がめいるが、あの人と一緒ならそれも悪くないと思う。

 ナイアガラの滝を流れる笹の葉のように僕は細い歩道を歩く。歩くといっても僕は横の同僚に引っ張られている状態だ。その同僚もどこかの小川を流れているような足並みだった。
 ちょっと飲みすぎたらしい。頭がぐるぐる回る。回る。舌もよく回る。上司への不満、A課のあの子の恋愛事情、あることないこと、僕たちは話す。
 と、同僚と僕が足を絡めてしまった。僕は持ち手の支える力を失ったモップのようにダオン、と倒れてしまった。倒れた先は車道の端っこだった。同僚はその僕に引っかかりさらに車道の奥へと倒れ込む。
 だいたいこういうときは決まって横から車が来るものだ。もちろんこのときも例外なく。
 横を併走していた選手が急にゴールに辿り着いた。このレースのゴールは人それぞれ違う。
でも、その選手は例外であった。何しろわたしと同い年ぐらいだったのであと何十年もゴールするのは先のはずなのだ。
 喜ぶ彼女をうらやましそうに見つめながらもわたしは走るのをやめない。あの人の声援がさらに大きくなっているのだ。
 ふふ、わたしもっとがんばっちゃう。


 意識の深い海の底で僕は同僚が死んでしまったという医者の声が聞いた。どうやら頭から車に当たってしまったらしい。そして僕も相当に危険な状態のようだ。
「心拍数下がってるぞ!」
 医者の怒鳴り声。僕はこのまま死んでしまうのだろうか。ピー――。
「心臓マッサージだ! 電気ショック用意!!」
 ドオン、ドオン、ピー、ドオン、ドオン、ピー。
 やっぱり僕はこのままゴールに辿り着くようだ。
 ピー――。
 息継ぎすることの無い朝のすずめのように機械は鳴き続ける。
 ピー――。
「もうだめだ。残念だがあきらめることにしよう」
 ああ、僕だけじゃなくついに医者もあきらめてしまった。
 どんどん遠くなる世界の音。
 ピー。
 この先待ち受けるゴールは死。 

「がんばれ! 僕の寿命、がんばれ!!」
 応援団はみんな応援している選手を寿命って言うのよね。理由はよくわからないわ。
 あれ、少し先に何かが見える。
 わたしと何かは近付き、それを確認できる距離となった。
 それは、ありえなく早いわたしのゴールライン。
 あまりの唐突なことで驚いたが、わたしは素直にそれを喜ぶことにした。
 長かったこのレースもようやく終われるのだ。あの人のためにわたしはすごくがんばってきた。完走できるようにずっとがんばってきた。でもこの苦しいレースももう終わり。
 見る見る近付くゴール。あの人は横で応援したり消えてしまったりしている。その表情はどこか儚いシャボン玉のようにも見えた。そして、わたしの体は滝へ落ちる笹の葉のようにゴールへと吸い込まれていったのだ。 

 ああ、長く苦しいレースだったわ。色んな障害もあったけど何とか完走できた。聞くところによると、このレースの完走率は百%らしい。ただし、レース内容は別として。
 そのときわたしの横を一人のランナーが走り抜けて行く。
 あれ? あれはあなたの応援してる選手かしら? 結構速く走ってるみたいじゃない。
 しっかり応援してあげてね。まだまだ何十年も走らなくてはいけなさそうだし。
 でも、もしかすると。
 もしかすると、わたしみたいにゴールが予想より早くやって来るかもよ。
 あなたの選手が早くゴールに辿り着くように祈っているわ。
	

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