忘れ物語
 気が付くと、僕は知らない場所にいた。
「何も見えない」
 目に見えるのは白だけ。それは温泉の湯気のように熱いものなのか、霧のように冷たいものなのか分からない。手足に感覚がないのだ。
「やあ」
 ふと声が聞こえる。視界が悪く、相手が見えない。
「どこにいるんだ?」
「ここさ」
 目の前に影が見える。その形からそれが人だと分かる。影は言う。
「君はなぜここに来たか分かるかい?」
 僕は首を横に振る。
「君は大事なものを無くしたんだ。そして私はそれを君に返してあげようと思うんだ。ただし――」
「ただし?」
 影が小さな笑みを浮かべる。
「返せるのは一つだけだ」
 僕は大事なものについて考える。記憶がはっきりしない。
「ヒントはくれないのか?」
 影は答える。
「無理だ。私はあくまで平等なんだ」
 僕と影は出会った時から同じ距離を保ったまま話している。
「時間はある。ゆっくり考えてくれ」
 僕は頷く。そしてあることを思いつく。大事なものとは、霧のようにはっきりしない記憶ではないのか。
「大事なものとは、ここに辿り着いた記憶ではないのかな?」
「たしかに大事なものだ。ならそれを返してあげようか?」
 そう言われて僕はもう一度考える。本当にそれでいいのだろうか。影は言う。
「もっと周りを観察するんだ。記憶は自ずと蘇る」
 僕は周りを見渡す。しかし何も見えない。自分の存在さえはっきりしないのだ。
 僕は視界だけに頼るのをやめ、手を使って辺りを探ることにする。まず僕は自分の状態を確かめる。着ているのはいつもの学生服。僕は自分が高校生であることは覚えている。そして僕はあることに気付く。
「服が破れている」
 それもひどく。僕は急に不安になる。僕の手は自我を獲得したかのように激しく動く。僕は肩にかかる鞄に手を伸ばす。少しだけ霧が晴れてきている。
「学園祭の買出しのメモ?」
 僕は過去の自分に質問するみたいに言う。鞄から出ていたのは小さなメモ。クラスの展示物を作る材料のメモだ。
「僕は放課後買出しに行った」
「そう、君は買出しに行った」
 影は言う。僕は二人で買出しに行ったのだ。そのもう一人とは女の子だった。
「僕の彼女と?」
「君の彼女と」
 影は短く答える。僕は記憶の影の中に飲み込まれていく。

「全部買ったよね?」
 彼女は言う。僕たちは並んで歩道を歩いている。
「多分」
「はっきりしないのね」
 彼女は僕のはっきりしない性格によく腹を立てる。僕は買出しのメモを見直す。
「いけね。ガムテープもう一個買わなくちゃいけなかったんだ」
「いいじゃない。一個あるんだし」
 僕は少し腹を立てる。
「だめだよ」
「何よ。変なときだけはっきりするんだから!」
 いつものように僕たちのけんかが始まる。

「あんたとはこれでさよならよ!」
 彼女の怒りはついに頂点を越える。しかし、僕も今日は我慢できない。
「いいよ。もうお別れだ」
 僕と彼女は反対方向へ歩こうとする。行き先は同じであるのに。
「あ」
 彼女の声に僕は振り向く。彼女の持つ袋からガムテープがポロリと落ちる。それはタイヤみたいに車道へと転がっていく。彼女はそれを追いかけ、運命みたいに車がやって来る。 

「そして君たちはどうなった?」
 影は言う。僕は自分の頭を触る。その手から赤い血がポロリと落ちる。
「彼女を助けようとしたが、僕も車にひかれた」
 影は頷く。そして僕たちは病院に運ばれ死んだのだ。
「そうだ。頭を強く打ったため記憶が消えていたんだ」
 霧は晴れ渡る。影はしだいにはっきりしていく。背中には翼、頭上には、輪が浮いている。
「ようこそ、ここはあの世への入り口だ」
 僕は思い出す。大事なものとは命だった。
「二人して死んだのが不憫でね。少しだが助けてあげようと思ったんだ」
 僕は天使を真っ直ぐ見つめる。返してほしいものを決めたのだ。
「命を返してほしい。ただし――」
「ただし?」
 僕は小さな笑みを浮かべる。
「彼女の命だ」
「いいのかい? 自分のではなくて」
 僕は頷く。助かりたい。でも返してくれるのは一つだけ。選ぶのは一番大事なものを選ぶべきなのだ。
「分かった。では目を瞑るんだ」
 僕は目を瞑る。次に目を開けたとき、そこが天国であることを祈る。

「気が付いた?」
 僕の目に一人の女の子が映る。
「ここは……?」
「病院よ。私達は何とか助かったの」
 どう見ても天国ではない。天使は僕の命も返してくれたのだろうか。
「ねぇ。こんな話信じる?」
「どんな?」
 彼女は自慢げに言う。
「夢の中に天使が出てきて、大事なものを一つ返してくれるって言うのよ」
 僕は天使の言葉を思い出す。
『私はあくまで平等なんだ』
 僕は聞く。
「何を返してもらったんだい?」
 彼女は天使のように答える。
「一番大事なものよ」
	

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