最後の一歩のプレゼント
 僕はベットから今日の最初の一歩を踏み出す。机の上の時計の針は七時をさしてる。
「まだ七時か」と僕は言う。
 学校へ行くバスが出るのは八時過ぎ。僕はもう一度寝ようかと思いベットに戻る。
「眠れない」
 僕はあきらめて起き上がる。たまにはゆっくりと朝食を取るのも悪くない。僕が好きな朝食のメニューはコーヒー牛乳と卵サンド。僕はリビングへ向かう階段を下りながら、流れ星も出ていないのに「コーヒー牛乳と卵サンドが食べたい」と願い事を繰り返す。
「あら早いわね。まだ七時過ぎよ」と母は言う。みそ汁のいい香りが部屋に立ち込める。みそ汁はおとついから三度目だ。僕はみそ汁があまり好きではない。
「またみそ汁かよ」
「いや、今日は志向を変えてブタ汁よ。まだできないから顔を洗ってきなさい」
 お前の無駄な足の肉を入れてしまえばいいのに、と思いながら僕は洗面所へ向かう。
「がっ!」
「何やってんの?」
「小指をテーブルの足に……指が取れそう」
「全くちゃんと見て歩きなさいよ。あんたの指の一個や二個ぐらい無くなっても大したことないわ」
 母はあきれたように言う。僕はあまりの痛みで反論できない。足全体がとれるほどの痛みだ。
「指が取れたときにはそれをブタ汁にしてあげるわ」
「少しは心配しろよ」
 僕の憎まれ口を聞き安心したのか、母は笑う。僕は立ち上がり洗面所へとゆっくりと歩き出す。僕はその途中で足がとれるということを想像をする。でもそれは世界の果てを想像するようなものだ。
 家から一歩踏み出すと、朝特有の爽やかな空気が広がっている。
「今日はいいことがありそうだ」と僕は声に出して言ってみる。そしてバス停に向かう。今からいけばちょうど五分前には着くだろう。
 バス停にはいつものように二人の学生がバスを待っている。
「よう今日も早いな」と僕は心の中で言う。
 ただし声に出しては言わない。なぜなら僕らは知り合いではなく、話したこともないからだ。近くに住んでいて同じ学校に通うという接点しかない。それでも毎日顔を合わしているので親しみがある。何も話してくれないふるさとみたいに。
 僕はその一人に目を向ける。僕の水晶体にはある女の子が映っている。「マキちゃん、相変わらず今日もかわいいね!」なんて心の中で言ってみる。彼女は隣のクラスのマキちゃん。彼女の名前は顔の広い友人から聞いていた。一応ことわっておくが僕は彼女のことが好きなのだ。すごく。
 僕はもう一人に目を向ける。僕と同じぐらいの背格好をした男。名前はたしかシュンだったかな。友達にそう呼ばれていたのを聞いたことがある。シュンはどのクラスか忘れたが、僕のクラスでもマキちゃんのクラスでもない。もちろん僕はマキちゃんにしか興味はない。
 僕は少しだけマキちゃんの立ち位置に近付く。バスを待っているのだから近付いても不自然ではない。僕にとってその距離はたった一歩ほど。でも僕には声をかける勇気はない。

「本町二丁目です。次は東校前、東校前――」
 僕らは無言でバスの中へ入る。バスの中は東校の次に駅に止まるせいか、いつもいっぱいだ。マキちゃんは前から三番目の席。僕は前から二番目。シュンは一番前の席へ座る。
 僕は「後ろに目があればいいのに」と思いながらバスに揺られている。何か起きればちょっとでも振り向くことができるのに。そう何かあれば。僕はあれこれ考える。携帯を落として見ようか。いやいや財布もいい。僕はあれこれ思いながら何もできないでいる自分を情けなく思う。僕は最初の一歩でさえ踏み出す勇気がないのだ。バスは僕をどこにも連れていってはくれない。バスは人通りの少ない国道に差し掛かる。
 瞬間、僕たち乗客はバス後方からの轟音に振り返る。その轟音は押し固められた雷のように、辺りを包み込む。僕はマキちゃんを見ることも忘れ、後方に意識を集中する。
 白い軽自動車と黒いワンボックスカーの事故だ。僕たちは映画館の乗客がスクリーンを見るようにその事故に視線を集中させる。乗客たちが一斉に後ろを見つめる姿は、バスの正面が後部と入れ替わったようにも見える。
 そのとき。バスの前方から声が聞こえる。その声は深い森の奥から放たれたみたいに感じる。
「ぶつかる!」
 その声にかろうじて反応した僕は、バスのフロントガラスを見る。そこには一面のコンクリートの壁が存在している。僕は声を出そうとする。しかしそれはなかなか僕の口へと到達しようとしない。時間の進むスピードが限りなく遅くなっているのだ。そして、激しい衝撃が音もなくバスを包み込む。乗客は宇宙飛行士のようにバス内に放り出される。僕の意識は遠い宇宙の彼方へと飛んでいってしまいそうになる。
 間もなくして、さっきの数倍の轟音が響きわたる。しかしその音はとても非現実的で、世界の果てから聞こえてくるようだ。ここで僕の意識は完全に途絶える。

「ようやく目覚めたのか」と男の声が頭に響き渡る。あまり聞いたことがないが、これはシュンの声だ。
「ここは病院だ。君は三日も意識が回復しなかったんだぜ」
 そうだ。僕は事故にあったのだ。記憶は断片的で未完成のパズルのように感じる。僕は大事なことを思い出す。
「マキちゃんは!」と僕はシュンに聞く。
「大丈夫。君より遥かに軽傷さ。衝撃で座席から投げ出された君は、偶然マキちゃんの上で意識を失ったらしい。そしてすべての破片は君に当たってマキちゃんは何ともなかったそうだよ」
 僕はそのとき意識を失ったことを少し残念に思う。僕はその状況を思い描こうとするが、それは想像にすぎない。
「そのことを知って、彼女は毎日見舞いに来てくれている。今日はさっき帰ったばかりだ」
「もうちょっと早く目覚めればよかった……」
 僕は体を何とか起こす。僕はパズルのピースを確かめるように全身を見る。そして体のあらゆる箇所を触る。すべて正常だ。
「三日も意識がなかったわりには何ともない」
「本当にそうかな?」とシュンは意地悪そうに言う。
「右足を見てみるんだ」
「何ともない」
「もっとよく右足を見るんだ」
 僕はもっとよく右足を見る。ひざの部分だ。そこに縫い目がある。その縫い目がどこまでか確かめようとする。その縫い目は赤道のようにひざを一周する。
「足が一度とれたのか……?」
「いや少し違う。それは君の足だ」
 僕は意味が上手く掴めない。
「さっき君がマキちゃんを助けたといっただろ? そのとき君は破片をまともに受けた。それにより君の体はぐちゃぐちゃになってしまったんだ。足以外ね。そして事故によって足が潰れてしまった僕が、君の綺麗な足を貰ったというわけさ。つまり僕のなくなった右足に、君の右足を移植したんだ」
「そんなばかな」
 そんなばかな。僕はもう一度繰り返す。僕の体は死んで足だけになっているだと。
「君と僕は背格好が一緒だからね。偶然移植することが可能だったんだ。それに僕は君に嘘を吐く必要はないじゃないか。証拠もある。なら君と話す僕はどこにいると言うんだい?」
 僕は辺りを見回す。一人用の病室にはベットが一つだけあり、ここには一人の人間しかいない。
「まさか」
「悲しいけど現実なんだ。どうして足だけになった君が自我を持っているかわからないけどね。よほどこの世に未練があったのかもしれない」
 僕は痛みをこらえて、ベットから一歩を踏み出す。そしてもう一歩踏み出し、備え付けられた洗面所の鏡へと向かう。僕は生まれて初めて鏡を見るのが恐くなる。僕は鏡に視線を集中させる。
「どうだこれで分かっただろう」とシュンは言う。

「驚いたかい?」
 僕はベットの上で腹を立てている。
「この嘘吐き野郎」と僕は言う。シュンの笑い声が頭の中に響き渡る。
「びっくりしただろう。足だけになったのは僕の方なのさ」
 そう僕が足だけになったわけではなく、シュンの方が足だけになってしまったのだ。落ち着いて考えてみれば、僕は自分の意志で鏡まで歩いたのだ。右足だけで鏡まで行くことはできない。それにマキちゃんは僕に助けられたことを知り、見舞いに来ていたのだ。シュンに助けられたわけではない。僕は右足に聞く。
「僕の右足はどうなってしまったんだい?」
「君の足は救出されたとき、パズルのなくしたピースのように消えてしまっていたんだ。きっとぐちゃぐちゃに押し潰されてね」
「そうか。君の右足は……えっと何て呼べばいい?」
「シュンでいいよ」僕は心の中で右足に向かってシュンと呼ぶ。
「シュンの右足はなぜ僕のものに?」
「正確には君のものじゃないぜ。一応僕の右足だ」と彼は主張する。僕は笑い、話の続きを待つ。
「僕は重症だった。君よりはるかにね。だって僕は一番前の席に座っていたんだから。バスの運転手は即死だったけど、僕は何とか即死は免れた。しかし一時的に死を免れただけだった。僕は奇跡的に意識を少しの間だけ取り戻すことができたんだ。そう、ほんの少しの間」
 右足が少し震える。
「そのとき医者が提案したんだ。『君は残念だがもう手の施しようがない。しかし君の体の傷ついていない一部を、他の人へと移植することができる』ってね。僕は無条件に死ぬことを受け入れるしかなかった。それならば誰かの役に立ちたいって思った。死はいつかやってくることは知ってたけど、それはあまりに突然で傲慢だった」
「そして君は死を受け入れた?」と僕はシュンに聞く。
「僕はその提案を受け入れたが、死を受け入れはしなかった。僕の心はパズルのように分解し、体の一部へと向かった」
「つまりこの右足に」
「そう右足に。僕は肉体的には死んでしまったが、精神的には生きている」
「でも足に心が移るとはね」と僕はつぶやく。
「そもそも心の位置なんて誰も知らないじゃないか。頭か心臓だと思ってる人もいるかもしれない。しかしいくら大脳や小脳、右心室や左心室を切り開いたところでハート型のものは入っていやしないだろう?」
 僕は自分の脳や心臓にハート型のものが入っているのを想像する。
「そんなものは入っていないだろうね」
「そうだ。心は形がないものなんだ。形がないからこそ何にでもなることができると思うんだ」
「たとえば右足のように」
 右足は笑う。
「その通り」

 次の日の午前中、僕の意識が回復したことを聞き、一人の刑事が僕の部屋に訪れる。あの事件の被害者に会って話を聞いているらしい。この事件は結果しかよく分かっていないのだ。刑事はベット脇の椅子に腰掛ける。
「右足の調子はどうだい」
「大丈夫です。順調に回復しています」
 僕は刑事に答える。「でも違和感があるのじゃないか?」とシュンは笑いながら言う。シュンの声は僕の心にしか響かない。だからシュンの声が他の人に聞こえる心配はない。僕は刑事の言葉に愛想よく答える。適度に嘘を付きながら。
「何か事件について覚えていることはあるかい?」
 僕は考えながら、何となく刑事の右手を見る。そこには包帯が巻かれている。最近したケガみたいだ。それが僕の心に魚の骨のように引っ掛かる。僕は言う。
「あまり覚えていないんです。後ろの事故に気をとられていましたし。僕は『ぶつかる』という言葉を聞き、前の方に振り返りました。するとそこにはもう壁がありました。気付くと僕は病院にいました」
「――『ぶつかる』という声を確かに聞いたんだね?」
「はい」
 右手に包帯を巻いた刑事は少し考える。僕は続ける。
「事故について何か気になることがあるんですか?」
「いや、今のところは何ともいえないんだ。事故が起こったという結果は分かっているんだが、それまでがはっきりしないんだ。過程がすっぽり抜け落ちている。いきなり映画のラストシーンを見たようなものだ」
 刑事は立ち上がる。右手の包帯が、ベットで寝る僕の視線の高さと同じになる。
「結局、この事故はどういうものだったんですか?」
「事故のあらましは新聞に載っているよ。――ただしそれが真実とは限らない。真実は深い森の奥に潜んでいるんだ。また後日、話を聞かせてもらってもいいかな?」
 僕はうなずく。「いいですよ。僕の知ってることも真実とは限らないですが」
 右手の包帯が笑っているようにゆれる。
「早く退院できることを祈ってるよ」
 僕はもう一度うなずく。

「こんにちは。意識が戻ったんだってね」
「え、ああ……こんにちは」
 午後になり、マキちゃんはいつものように見舞いにやってくる。もっとも僕は毎日来てくれてたという実感はない。
「あなたが寝てるときに何度も言ったけど、助けてくれてありがとね。夢に出てこなかった?」
 僕は首を振る。夢は思い通りのものを見せてはくれない。
「そう」
 マキちゃんは笑う。僕はその笑顔に魅せられる。
「そういえばお互いに今まで話したことなかったはね。いつも同じ停留所にいて、いつも同じ場所へ向かっていたのに」
「僕はあまり自分から話しかけないタイプなんだ」と僕は意味のない言い訳をする。
「もう一人もそうだったわね」
 僕は右足を見る。「僕も自分から話しかけないタイプだ」とシュンは言う。マキちゃんはもちろんシュンが生きていることなど知らない。宇宙的視点で見ても僕だけが知っている。
「シュンも自分から話しかけないタイプなんだ」
 僕はシュンに代わって言う。マキちゃんは不思議そうな顔で首を少しかしげる。
「えらくシュンのことを知っている感じね。二人はいつも話してなかったし、知り合いには見えなかったけど?」
 右足は笑う。
「あくまで僕がそう思っただけだよ。何となくシュンからは僕と同じ匂いがしてたんだ」
「ふうん」
 マキちゃんは一応納得した顔になる。そして窓の傍へと向かう。窓の外には思い出を切り取ったような景色が見えている。僕たちはそれぞれ僕たちのことを考える。
「なんだかこういうことがあってから話すようになるって、不思議な感じだと思わない?」
 僕はうなずく。僕の右足の方が不思議だと言いたいが、そんなことは口に出すべきではない。マキちゃんは続ける。
「あの事故のことって何か覚えている?」
「いやほとんど思い出せないんだ」
「わたしも思い出せないのよ。あなたがわたしの上に覆いかぶさったこと以外はね」
 僕は少し顔を赤くする。彼女に気付かれない程度に。
「でも僕は何かが引っ掛かってるような気がするんだ」
「魚の骨みたいに?」
「たぶん」
 彼女は振り返り、僕たちを見る。彼女の姿は景色と一体化してるように見える。僕は聞く。
「刑事に話はした?」
「したわ。あなたがまだ眠ってる間にね。右手に包帯をまいた刑事がわたしの病室に来て、事故のことについて尋ねてきたわ」
「でもほとんど覚えてないから、事故について答えようがない?」
「そうね」
「僕も答えようがない。でもこの事故のことはとても気になる」
「わたしも気になる。話したことはないけどわたしの知っている人が死んだ事故だしね」
 僕はうなずく。先ほどからうなずいてばかりだ。
「あなたが退院したら事故現場に行ってみない?」
「いいとも」
「約束ね。それまでわたしは事故のことについて少し調べてみるわ。明日また来るね」
 僕はマキちゃんに手を振る。明日がこんなに待ち遠しいと思ったことはない。しかし、明日のずっと先には死が待っているということを右足は優しく教えてくれる。

「まず白い軽自動車と黒いワンボックスカーの事故が起きたのよ」
 マキちゃんはベットの上に、あの事故についての記事を集めたスクラップブックを広げている。僕たちが知りたいのはこの先だ。
「そしてそれに見とれたバスの運転手がふらつき、目の前から来た青いセダンとわずかに接触――」
 マキちゃんは自分の右手と左手をぱあん、と叩く。マキちゃんは続ける。
「その後バスは道路脇の壁へ、青いセダンはバスと反対方向の壁へ衝突したの。青いセダンの運転手はバスを避けることができなかった」
 僕は僕が見た壁のことを思い出す。僕はマキちゃんに聞く。
「この事故で死んでしまったのはバスの運転手とシュンだけなの?」
「そうね、亡くなったのはその二人だけ。重傷なのはあなたと、青いセダンの運転手ぐらいね。あなたは足を、セダンの運転手は手に大ケガをおったらしいわ。わたしも含めて他の乗客は奇跡的に軽傷で、歩行者に被害はなかったそうよ」
 僕は事故の情報を脳内に書き込んでいく。そして事件を一本の映画のように構築していく。
「目撃者は?」と僕はマキちゃんに聞く。
「いなかったようね。そのとき少なからず歩行者はいたんだけど、みんな最初の事故に釘付けになってしまったのよ。だから二番目の事故――つまりわたしたちに襲いかかった事故については目撃者はいない。誰も映画館でスクリーンに背を向けないのと同じよ」
 僕は少し考えをまとめる。そして気付く。
「目撃者はいないのに、事件のあらましはどうやって分かったの? バスの運転手が後ろを見とれていたというのは誰が証言したんだろう?」
 マキちゃんは少し首を傾けて考える。かわいい仕草に僕は釘付けになる。たしかに誰も映画館でスクリーンに背を向けない、と僕は思う。
「タイヤの跡だけではここまで分からないわね。おそらく青いセダンの運転手の証言じゃない?」
「たしかに青いセダンの運転手しか、バスの運転手を見ていない。それはその人の証言だろう」
「嘘でも本当でも青いセダンの運転手を信じるしかないってことね」
 嘘でも本当でも、と僕は思う。マキちゃんは立ち上がる。時計を見ると、誰かが短針にいたずらをしたように時間は進んでいる。
「それじゃあ、また明日来るね」とマキちゃんは言う。
「また明日」

「こんにちは」で始まり、決まって「また明日」で終わる僕とマキちゃんの会話。一応シュンも僕を通して会話に入る。最初のうちは事件のことばかり話していたが、カレンダーがめくられるにつれて僕たちは色んな話をするようになる。今日の天気のこと、昨日の晩御飯のこと、学校のこと、明日のこと、過去のこと、未来のこと、そういう話がマキちゃんとできるのは僕にとってとても幸せなこと。
 今日ももうすぐマキちゃんが来る時間だ。僕は昼食を食べている。栄養たっぷりの昼食だ。
「そういや、シュンはお腹空かないの?」と僕は小さな疑問を口にする。
「空かないね。あったとしても口も胃もないから食べれないよ。実際は、君の摂った栄養がたっぷり僕に流れてきているからかな」
「なるほど」
 僕は一人で二人分の栄養を摂るということについて考える。お腹の大きな妊婦みたいなものなのだろうか。しかし僕の右足は外の世界に生まれ出たり、成長したりはしない。むしろ僕の方が赤ん坊みたいなものなのだろうか。
「君は明日で退院だよね?」
「うん」
「明日からマキちゃんは君の元にやって来ない?」
「どうだろう。わからない」
「君は自分から近付いて行かなくてはいけない?」
 多分僕は自分からマキちゃんに近付かなくてはいけない。成長すべきは右足ではなく僕の方かもしれない。シュンは続ける。
「僕は君のことを応援するよ。何せ君が失恋して引きこもったり、飛び降りたりしたらたまらないからね。僕は君の一部であると同時に、君は僕の一部でもあるんだ」
 昼食を食べ終えた僕は窓の外の景色を眺める。ほんのじばらくの間、外の世界に出なかっただけで僕は世界と切り離されたような気がする。僕は僕の右足のみたいに世界と切り離されているのかもしれない。
「こんにちは」
 僕はその声を聞き、扉の方へ振り返る。マキちゃんは僕の方に一歩ずつ近付き、ベットの脇の椅子に腰を下ろす。
「明日で退院なんだよね?」
「うん」
「久しぶりに外に出るのはやっぱうれしい?」
 僕は少し考えてしまう。外に出るうれしさという値から、マキちゃんが会いに来てくれるという値を減算してみる。値は間違いなくマイナスになる。限りなく。シュンは言う。「君はずっとこのまま退院しなくてもいいと思ってる」
「うん、久しぶりに家に帰れるし、学校にも行ける」
 僕は嘘を付く。僕の心はゆっくりと傷付く。
「そうよね」
 それから事故について少し話した後、マキちゃんは立ち上がる。今日はいつもより早い気がする。時計を確認する。時計はいつものように同じペースで時を刻んでいる。マキちゃんはゆっくり病室の扉へと向かう。僕の鼓動もいつもより速い気がする。マキちゃんはいつものタイミングで「また明日」とは言わない。
 シュンは言う。「それは明日君と会えるとは限らないからだ。君とマキちゃんは違うクラスだし、何より君の傷は癒えた。傷の深さは君とマキちゃんのつながりに比例していたんだ」
 僕は一歩近付いて何か言わなくてはいけない。でも僕の体は時計の短針のようになかなか動いてくれない。長針という気持ちだけが先行する。僕の体は実はシュンのものなのではないかと錯覚させられる。そして僕の正直な気持ちを右足が投影する。シュンは言う。「最初の一歩は少し手を貸してあげよう。正確には手じゃなくて足だけどね」
 右足に履いているスリッパが地面とぶつかり、かわいた音を立てる。マキちゃんはその音で僕の方を振り向く。僕は一人じゃないことに少し勇気が出る。
「そういえば、一緒に事故現場行くって約束――どうする?」
 マキちゃんは困ったような喜んだような表情をする。恋をしている相手の気持ちを読み取ることはどんな計算よりも難しいのだ。マキちゃんは答える。
「明日の放課後行ってみない?」
「うん」
 僕は口癖みたいにうなずく。
「それじゃあ、また明日」
「また明日」

 僕は朝のうちに退院し、そのまま学校へと向かう。クラスメートに事故について話す。みんな「へぇ」とか「大丈夫?」と聞いてくる。どうせここ何日かだけだと分かっているが、僕は何となくうれしい気持ちになる。僕はこのクラスの一部だということを再確認する。
 そして放課後、僕はマキちゃんと待ち合わせている学校前のバス停へと向かう。シュンはじめから一つの体だったように巧みに足を踏み出す。右足は僕の意志で動かないから歩いていて妙な気分だ。
「昨日は助かったよ」と僕は言う。
「礼はいらない。君は僕の一部でもあるんだから」
「違いない。そういえば、シュンは自分のクラスを見ないでよかったの?」
「別にいいさ。自分が生きているのに、机の上に花が飾られているなんてうんざりする」
 僕は自分の机の上に花が飾られているのを想像し、うんざりする。
 学校前のバス停にはマキちゃんが立っている。行きはいつも同じバスだが、帰りはあまり一緒にはならない。放課後のマキちゃんはいつもより新鮮に思える。マキちゃんは僕に気付く。
「足を大ケガした割にはよく動けるのね」
「うん、まるで前よりよくなったみたいだ」
「そう」とマキちゃんは言う。そしてバスが到着する。僕たちは家の近くにあるバス停までは行かず、途中のバス停で降りる。そこは事故現場だ。
 壁にはまだ大きな傷がついていた。そして花束が置いてある。シュンの家族だろうか、それともバスの運転手の家族だろうか。捧げられた花は事故をより生々しく感じさせる。僕とマキちゃんは手を合わす。目をつむり、辺りは静かになる。そして僕たちはきっと同じことを考えている。ふと後ろから声がかかる。
「やあ先日はどうも」
 そこにいたのは右手に包帯をまいた刑事だ。僕たちは軽く会釈をする。
「君は退院できたんだね。元気そうでなによりだ」
「はい、もう大丈夫です」
 刑事はにっこり微笑み、花を供える。そして先ほどの僕たちのように手を合わす。僕たちはそれを見守る。そして刑事は僕に聞く。
「前会ったときに言っていた『ぶつかる』って声、確かに聞いたんだよね?」
「はい。それは確かだと思います」
「それは君の座ってる席から前の方から聞こえたのかい?」
 僕は意識の深い森の奥から記憶を取り出してくる。
「おそらく前の方から聞こえました。僕はその声で前に振り返ったのだから」
 刑事は考え込む。アスファルトは夕日により赤く染まっていく。その様子はとても生々しく感じられる。
「そうか、ありがとう。とても参考になった」
 僕はうなずく。刑事は続ける。
「それじゃあ、わたしはもう少しこの事件について調べてみるよ。また何か思い出したらこの電話番号にかけてくれ」
 刑事は僕に一歩近付き、電話番号が書いてあるメモを渡す。そして礼を言って去る。マキちゃんは言う。
「『ぶつかる』って声なんてした?」
「うん。僕は聞いた」
「わたしは聞こえなかった。あなたの席の前の方からだとしたら――シュンの声かしら?」
 シュンは僕に言う。「僕には言った記憶はない。僕も後ろに見とれていたのだから」
「多分違うと思う。僕はシュンの声をそんなに聞いたことはないが、あの声は違う」
「そう」
 僕はそのときの席順を考える。マキちゃんが三番目、僕が二番目、シュンが一番目。しかしシュンは言ってはいない。だとしたらその前にいるのは――
「運転手の声かもしれない」僕は言う。
「でも運転手だとしたらおかしくない? 後ろを見とれていた運転手が『ぶつかる』って言うなんて。まるで前を見ていたみたいじゃない」
「たしかにそうだ。しかし新聞に書いてあることが真実とは限らない」
 マキちゃんは考える。事故について。真実について。そして、嘘について。
「セダンの運転手は嘘をついている」
 僕はうなずく。そうだ。セダンの運転手は嘘をついている。

 次の日の放課後、僕とマキちゃんは再び事故現場へ行く。
 事後現場は昨日となんだ変わらないように見える。しかし明日、そしてあさってと時間が経過するにつれて少しずつだが変化していくだろう。それはいつの間にか忘れ去られてしまうだろう。昨日人が死んだ場所は気になるが、千年前に人が死んだ場所は気にならないのだ。
「やあ何か思い出したんだってね?」
 右手に包帯をまいた刑事だ。僕とマキちゃんは昼のうちに電話をかけ、刑事を呼び出していたのだ。僕は昨日考えたことを刑事に話す。それはきっと話さなければいけないことなのだ。
「この先の公園で話しましょう。長い話になるかもしれない」
「いいよ。それにわたしも君に話したいことがあるんだよ」
 公園はとても静かだった。その静けさは、公園があたかも深い森の奥に作られたように感じさせる。その深い森は今まで閉ざされていたがゆっくりとその全形を僕たちに見せてくれつつある。僕は森の空気を深く吸い込む。右足は言う。「さあ準備は整った。あとは解き明かすだけだ」
 僕はうなずく。そして僕はゆっくりと話し出す。
「僕はバスが青いセダンと接触する間際に、前方から『ぶつかる』という声を聞きました。そしてその声の主は、僕の前に座っていた高校生とバスの運転手の二人しか考えられない」
 刑事は黙って聞いている。僕は落ち着いて頭の中で考えていることを吐き出していく。
「僕はその高校生の声を知っています。僕が聞いた声はその高校生の声とは違っていた。それはその声がバスの運転手のものであることを示しています。それをふまえた上でこの話を聞いて下さい。まず新聞ではバスの運転手は後ろの事故に見とれてしまい、前方を見ていなかった。青いセダンの運転手はふらつくバスを避けきれずに接触となっています。しかし実際は違う。」
「実際はどうだと言うんだい?」
「実際は見とれていたのは青いセダンの運転手だったんです。バスの運転手は、脇見をしてバスに向かってくる青いセダンを必死に避けようとしました。しかしだめでした。そして接触する瞬間『ぶつかる』って言ったのです」
 刑事は考え込む。そして答える。
「なるほど。君の話が本当ならそういうことになる。つまり青いセダンの運転手は事故の責任を死んだバスの運転手になすり付けようとしたってことかい?」
「そうです。青いセダンの運転手は事故の目撃者がいないのを良いことに、そうしたのです」
 僕は話を終えてもう一度空気を深く吸い込む。そして吐き出す。刑事は話し出す。
「青いセダンの運転手は今どうしてるんだろう?」
 僕は答える。
「青いセダンの運転手は責任から逃れるため、何一つ証拠を残してはいけないと感じていた。そのためバスの前方に座っていた乗客の話を聞かなければいけなかった。乗客の一人でもバスの運転手が前をしっかり見ていることを覚えていてはいけなかったからです。そして誰もそれを見ていないことが調べていてわかった。――そう、僕を除いては」
「なかなかの名推理だ。君は探偵になれるかもしれない」刑事は右手をポケットに突っ込む。右手は砂漠に住む毒蛇のように何かを探している。
「そして青いセダンの運転手は手に大ケガをしていた。そしてあなたのその包帯。偶然にしてはでき過ぎだと思います。僕はあなたがその運転手だと考えています」
 刑事は笑う。そして空を見上げる。笑い声は砂嵐のように舞い上がる。僕はただ刑事の二つの目をじっと見つめる。
「わたしがそうだとしたらどうする?」
「僕は別にあなたに責任をとってほしいわけではありません。ただ、僕は知らなければいけないことを知りたいだけです」
「それが深い危険な森の奥にあってでもかい?」
 僕はうなずく。その様子を刑事は確かめ、話を続ける。
「すべては君の言うとおりだ。わたしは嘘を付いた。しかし、そうしないわけにはいけなかったんだ。君はまだ若いから分からないかもしれないが、大人には守るべきものがたくさんある。真実なんかよりね。だが君は真実を手に入れてしまった。それは実に危険なものなのだよ。わたしにとっても君にとってもね」
 刑事は右手をポケットから出す。白い包帯は風に揺れ、手に持つ白い金属の加工品は輝きを放つ。――ナイフだ。
「マキちゃん、逃げろ!」
 僕は振り返る。マキちゃんは驚きながらもうなずき、駆け出す。僕は初めて『マキちゃん』と口に出したな、と考え少し恥ずかしくなる。心は予想以上に落ち着いている。僕は一人じゃないからかもしれない。そして僕は右手に包帯をまいた男と対峙する。
 男の動きは早い。一歩ずつだが確実に僕に近付いてくる。右手の妖しく光るナイフが素早く僕の動きを捉える。僕の動きが読まれている錯覚に陥る。
「集中しろ。動きをよく見るんだ」シュンは言う。
 僕はうなずく。僕は前方に転がり、一撃目をかわす。男は振り返り、構え直す。死角は無い。
「本当にすまない。わたしはもう後戻りはできないんだ」
 右手に包帯をまいた男は言う。男の瞳を見る。その瞳は黒く濁り、光は無い。すべての光はナイフに吸い込まれてしまったみたいだ。そして僕もその瞳に吸い込まれそうになる。僕の左足は一瞬止まる。男はそれを見逃さない。僕は狩られる側なのだ。
「危ない!」シュンは言う。そして右足が動く。僕の頭の上にナイフの軌跡ができる。その軌跡に少しでも入り込んだら僕は簡単に引き裂かれてしまうだろう。僕は崩れた体勢を少しでも立て直そうとする。しかし男の第三撃目は予想以上に早い。誰かが時計の針にいたずらしたみたいに。
「すまない」
 右手に包帯をまいた男は僕にもう一度謝る。僕はナイフを避けきることはできない。僕の頭の中は『死』という言葉でいっぱいになる。そして周りの世界は色を失い、すべての動く速度は限りなく小さくなる。ナイフは僕の脇腹辺りに、一歩ずつ確かめるようにゆっくりと向かってくる。僕は避けようとする。僕は光の速さで神経に指令を与える。このナイフを避けろ、と。僕は何度も命令を送り続ける。しかし間に合わない。僕はシュンに謝る。
「すまない。僕が死んだら君も死ぬことになる」
 右足は言う。
「偶然生きながらえた命だ。ここで死んでも悔いはない。君には感謝してるよ」
 僕は笑う。マキちゃんは上手く逃げれただろうか。僕が死んだら机の上に花が飾られるのだろうか。僕が死んだら世界はどう変わるのだろか。答えのない質問が脳内で繰り返される。死ぬことを考えないわけにはいかない。だが僕は思うのだ。そう、僕はまだ死ぬわけにはいかない。僕にはやり残したことが宇宙的にたくさんある。
「そう、君はまだ死ぬわけにはいかない」
 世界は色取り戻す、すべての速度は元に戻ろうとする。僕の動き、男の動き、風の流れ、時の流れ。しかしナイフだけは動けない。ナイフは時間に放っておかれた孤児のように見える。
「何っ!」
 男はナイフが動かないことに驚き、混乱する。そしてナイフはこの星の力に引き込まれ、手から地面へと落ちる。かわいた金属音が辺りに響きわたる。僕はここにきて事実に気付く。動かないのはナイフじゃない。右手だ。シュンは言う。
「あなたの右手はもう動かない」
「なぜ動かない? これはわたしの右手のはずだ」
「正確にはあなたのものじゃない。一応僕の右手なんだ」
 待っていたかのように突風が吹く。それにより右手にまかれた包帯は空に舞い上がる。僕は包帯のあった男の右手を見る。そこには赤道のように手首を一周する縫い目がある。

「そうか君も移植したのか」男は僕に聞く。
「はい。僕はこの右足を」
 僕は右足を見せる。男はシュンに聞く。
「それでわたしの右手も君のものだということなのかい?」
 シュンは言う。
「はい。僕の言葉があなたに聞こえるならやはりそうなのでしょう」
 僕は男とシュンの会話に口を挟むべきではないと感じる。男は言う。
「君はわたしのせいで死んだことを怒ってはいないのかい?」
「怒ってないわけではありません。ただどうしようもなく、誰が悪いというわけではないんです。ただ僕は自分がなぜ死んだかを知りたかった。捻じ曲げられた真実を受け入れることはできない」
 男は肩を落とす。その様子はすべての燃料を使い果たしてしまった乗用車に似ている。
「君の心は右足にほとんど移っているみたいだ。わたしの右手はいつも普通に動いていた。わたしの意志で。君の声は聞いたこともなかった。さっきの瞬間だけ、わたしの意志に反して動かなかった」
「僕の心はほとんど右足に移ったみたいです。心はどこにあるかは分からないけど、数は一つだと思います。少なくとも僕の場合は。だがあなたと近付いたことでそれが僕のものであると感じた。いくら心がそこに少ししかないからといっても自分のものは分かる。何十年も僕の一部であったのだから」
 男は押し固められたような息を吐き出す。その息はとてつもなく重いものに見える。
「わたしはね、ただ怖かったんだ。自分のせいで人が死んだことについて。そしてその責任を負うことについて。わたしは罪の迷宮の中に閉じ込められそうになったんだ。しかし逃げ道はあった。運転手に責任をなすり付けるという逃げ道が」
「そして逃げてしまった?」
「その通り。わたしは弱い人間なんだ」
「弱くない人間なんかいませんよ」
 シュンは一般的な見解を述べる。しかしその言葉にはほのかな温かみがある。シュンは続ける。
「それに弱さを知っている人間は強くなれる可能性を秘めている」
 公園の外からパトカーのサイレンが聞こえてくる。マキちゃんが通報したのだろうか。その音は徐々にだが大きくなってくる。公園に向かってきていることは確かだ。
「わたしはこれから真実を話すことにするよ」
 シュンはうなずく。
「その方がいい。きっと罪の迷宮からは逃げれると思います。出口は逃げ道一つじゃないんだから」
 男は笑う。そして礼を言う。
「君には手を借りてばっかりだね」
 そう言って男は右手を見せる。シュンは笑う。
「どういたしまして」

「無事でよかったわ」
 マキちゃんと僕は古い迷宮のような暗い道を歩いている。辺りはもう真っ暗だ。都市の輪郭を示すものは光しかない。
「心配した?」
 僕はマキちゃんに照れながらも聞いてみる。しかし僕の顔の赤さは気付かれない。夜の闇は本当の気持ちさえも隠してしまう。
「少々。あなたにはまた事故ったときに、盾になってくれないと困るもの」
「そういうことか」
 僕たちは笑い合う。道の先は少し明るい。僕たちは無言のまま――しかしそれは居心地のいい雰囲気だ――家へと向かうバスに乗り込む。バスの中でマキちゃんは言う。
「ねえ。もし今事故が起きたらどうする?」
「また君を守ってみせる」
 とシュンが僕の代わりに言う。しかしシュンの言葉はマキちゃんには聞こえない。
「事故が起きてみないとわからない」
 嘘を付くのが上手な僕は自分が嫌になる。マキちゃんは答える。
「たしかにその通りだわ」
 そして沈黙が訪れる。それは居心地の悪いものなのだ。ただし僕にとってだけなのかもしれない。マキちゃんにとってはどうなんだろう。僕はそれを激しく知りたいと思う。
 バスは何事も起こらずバス停に着く。そして何事も起こらず僕たちはそれぞれの家へと帰る。

「君はマキちゃんのことが好きなんだろ?」
 ベットの上で転がりながら、僕たちは話をする。僕は天井を見上げ、シュンは布団の中にくるまっている。
「もちろん」
「さっきはいい感じだったじゃないか。せっかくのチャンスだったのに」
「うん。でも僕は自分からあまり話しかけないタイプなんだ」
「しかし君はそんな自分がつくづく嫌になる?」
 僕はそんな自分がつくづく嫌になる。僕は生れつき『あと一歩踏み出せない病』にかかっているのかもしれない。そして僕は現在、恋の病にもかかっている。治す薬はない。
「シュンは僕を助けてくれないのかい? 前の病院のときみたいに」
 シュンは考える。
「仕方がない、少しなら助けてあげるぜ。何たって君は僕の一部なんだからね」
「たしかにそうだ。ありがとう」
「それじゃあ、明日マキちゃんに告白すると約束するんだ」
 僕は想像する。マキちゃんに告白することについて。でもそれは世界の果てを想像するようなものだ。
「本当にシュンは僕を助けてくれるのかい? そうしてくれるならできる気がする」
「助けると約束する」
 僕は電気を消す。窓にはカーテンがかけられていて、その先は何も見えない。僕は頭の中で明日という日をシミュレーションをする。そして告白の結果をシミュレーションする。良い結果、悪い結果を想像する。
「ありがとう、わたしも好きだったの」
「ありがとう、でもわたしあなたのことは好きじゃないの」
 僕は不安と期待を繰り返す。そして何パーセントで成功するかを暗い部屋の中で暗算する。計算結果はなかなか出てこない。そもそも計算できるかも分からないのだ。僕はあきらめて眠ることにする。僕は羊の計算を始める。そして二百三十四匹目の羊が僕の目の前を横切ったとき、僕の意識は完全に途絶える。

 僕はベットから今日の最初の一歩を踏み出す。
「よし」
 僕は気合を入れる。入れずにはいられない。僕は朝食に大好きなコーヒー牛乳と卵サンドを食べる。僕は学校へ行く準備をし、行く前に玄関の鏡を見る。鏡は等身大の僕を映し出している。そして流れ星も出ていないのに僕は願い事を繰り返す。「告白が上手くいきますように」
 そして僕は家を出る。帰ってくるときは笑っていたい。
「朝告白するのかい?」
「うん。放課後は会えない可能性があるから」
「その方がいい。時間が経てば経つほど決意というものは弱くなる。そしていつかは死んでしまう」
 僕はうなずく。もうすぐバス停だ。シュンは言う。
「一つ言っておく。昨日は約束したが、僕は君を手助けはしない」
 僕の足は止まる。
「なぜ? 君は僕の一部じゃなかったのか?」
「たしかに僕は君の一部だ。しかし考えてもみてくれ。僕がずっと君の右足の中で生きていけるなんて保障はどこにもないじゃないか。今この瞬間、僕はいなくなるかもしれない」
「それでも……僕の右足でいる間は助けてくれてもいいじゃないか」
「そうかもしれない。しかしそれではだめだ。君はつねに右足を頼ってしまうだろう。君自身はどこにも行くことはできなくなってしまう。君は閉じた完全な迷宮の中に閉じ込められてしまう。そして君はその中で迷い続ける」
 僕は言葉に詰まる。
「でも僕には勇気がないんだ」
「勇気は君の体に必ずある。君は偶然にしろマキちゃんを事故から守ったし、ナイフを持った包帯男とも戦った。僕は君の勇気を知っている。君の足跡も知っている。今君の勇気は体の中でばらばらに分解しているんだ。それをもう一度一つに組み立てるんだ。そうすればきっとすべては上手くいく」
 そうすればきっとすべては上手くいく。僕は体の中にある勇気のかけらを確かめてみる。そのかけら一つ一つは大きくなったり小さくなったりしている。僕はそれを少しずつ組み立てていく。
「その調子だ。この前の病院では、僕が最初の一歩をプレゼントしてあげた。しかしプレゼントをいつもしていては意味はない」
 僕はうなずく。体の中に勇気の塊が作られていくのを感じる。シュンは言う。
「僕は君が告白するまで口は出さない。もちろん足も出さない。ここから先はすべて君の力が必要なんだ。この物語は君の物語であるんだからね。主人公は君だ。僕じゃない。君は今までも主人公であったし、これからも主人公であり続けなければいけない」
 僕の足は少しずつだが動き出す。右足は少しづつ僕のものになっている気がする。僕が自分に欠けた何かを見つけたからだろうか。
「ゆっくり進めばいい。急ぐ必要はない。一歩ずつ確かめるように歩くんだ」
 僕は一歩ずつ確かめるように歩き、バス停に着く。バス停にいつもと同じように三人が集まる。
「おはよう」
 マキちゃんは言う。僕も「おはよう」と言う。気持ちはいくらか落ち着いている。
「実は君に大事な話があるんだ」
「それはとても大事な話なの?」
 僕はうなずく。今まで以上に強く。シュンは言う。
「あと一歩だ。勇気を出せ。最後の一歩は君の力をほしがっている」
 最後の一歩は僕の力をほしがっている。僕は一歩を踏み出し、マキちゃんに少し近付く。僕は彼女の瞳を見つめ、その先にある未来までも見つめる。もうすぐバスが来る時間だ。
「じゃあ聞かせてもらおうかしら?」
 そして僕は告白する。
 僕の左側からバスがやって来る。
 それから一呼吸置いて僕の物語が始まる。

 そして君は告白する。
 君の左側からバスがやって来る。
 僕は君の『好き』と言う言葉が、バスのエンジン音でかき消されないことを祈る。
 それから一呼吸おいて君の物語が始まる。
	

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