嘘と彼女と桜並木道
 僕は並んで歩く彼女に言った。
「今ちょうど桜が満開なんだ」
 桜は僕たちのように仲良く並んで季節を歩いている。
「満開の桜……」
 彼女はつぶやくように言った。首をメトロノームのように横に振りそこにあるものを確かめる。そして桜の奏でるメロディーを確かめた。
「なんとなく春の匂いがするわ」
 僕はうん、と頷く。僕らは道の脇にあるベンチに座った。
「君の目が見えていたら、今までで一番綺麗な桜が見えてたはずだよ」
 彼女は笑いながら答える。
「元気付けてくれるのはいいけど嘘を言ってはいけないわ」
 彼女の目が見えなくなったのは一年前のことだった。幼い頃から身寄りのない彼女には、僕が彼女の目となるしかなかった。それに僕も身寄りが無く、彼女だけが僕の支えだった。
 僕と彼女はいつも一緒に街を歩いている。まるでゴールのない二人三脚をしているみたいに。僕がずっと元気付けてきたので、彼女は光を失ったショックから、少しづつだが元気を取り戻してきた気がする。それとも僕に気を使い、元気が出てきたフリをしているだけなのだろうか。
「いや本当さ。少なくとも今まで見てきた桜の中で五本の指に入る」
 言い張る僕の言葉を聞き彼女はあきらめたように言う。
「わかったわ。見たことのないぐらい綺麗な桜を想像するとしましょう」
 彼女のまぶたの裏には世界中の桜を一本の木に集めたような美しさの桜が映っていることだろう。
 しかし僕の水晶体にはそんな桜は映ってはいない。僕は嘘を吐いているのだから。それに桜など世界のどこにも咲いていないのはないか、と僕は思う。
 だって世界は滅亡しているんだから。

 そして僕には秘密にしていることがある。その秘密が出来てしまったのは、一年前の世界滅亡の日のことだった。どこかの国がつまらない理由で新型の爆弾を使い、それに対抗して各国の報復。世界は表紙から最後のページまで読み飛ばした本みたいに一瞬で終わってしまった。市民への連絡など間に合うはずもなく、この事実を知ったのはすべてが吹き飛ばされた後だった。僕たちが知らない所で世界は動き滅びてしまった。僕たちは宇宙のことなど知りもしないであろう地面を這うアリみたいなものだった。
 爆弾によって僕の家も彼女の家も簡単に崩れてしまった。僕は気が付くと地面に伏せていた。すぐさま立ち上がり僕は彼女の家へと向かった。
 彼女の家は整形手術に失敗したようにかつての面影はなくなっていた。その上に彼女は何かを確かめるかのように立っていた。彼女は僕の気配を感じて振り返り、無理に明るい声で答えた。
「実は目が見えないみたいなの」
 話しかけられた僕は絶句した。僕の思考回路は庭に咲いていた花のように摘み取られてしまったのだ。
「そう」
 僕はこう答えたが、それはまるで誰か違う人間がしゃべったみたいだった。彼女は家が崩れた時に頭を打ったせいで目が見えなくなったようなのだ。僕の目は二つあるのだから今年あげた誕生日プレゼントのように彼女にあげることができればな、と思った。
 目が見えなくなったショックだけでなく、世界が滅亡しているなんてことを告げたら彼女は壊れてしまうだろう。それに彼女の中では世界が今も美しいままであってほしかった。世界は滅亡したのではなく大きな地震で街が壊滅したことにした。数ヶ月たち街は復興に向かっていることにした。そして僕は彼女の目となり、それから僕は嘘を吐き始めた。
 それに僕は彼女に秘密にしていることを除けば幸せであった。でもずっと秘密のままにしておくことはできない。僕は今日こそ彼女に秘密を打ち明けようと散歩に誘ったのだった。

 わたしと彼は道の脇にあるベンチに座っている。
「ねえ、学校はまだ直ってないのかな? もう一年も経っているのに」
 わたしは彼に聞く。
「学校は当分休学みたいだよ」
 彼は優しく言った。どうせならもうちょっと勉強しておけばよかった、と今更思った。
「学校のみんなに会えないのがなんだかさみしいわ」
「みんな忙しいんだよ、きっと。家の建て直しとかあるしね」
 彼はわたしに言う。彼は春に一番初めに咲く桜のように優しいのだ。その優しさがわたしの心を思い切りしぼったぞうきんのように締め付けるとは知らないだろう。
 わたしは彼に聞く。
「ねえ、あなたは今幸せ?」
 彼は少し考えてから答えた。
「少なくともこの辺りの人間の中では一番幸せだと思うよ」
 わたしは少し微笑み、彼も笑っているようだった。わたしの目には満開の桜が映っている。
 隣に座る彼の雰囲気が少し変わった。何か重大なことを伝えようとしているそんな気配。彼の心臓の音が、聴診器を通じてわたしの耳に届いているように感じた。彼は少し優柔不断な所があるのでいつもなかなか言い出せないのだ。わたしは彼が決心するまで待つ。
「実はずっと秘密にしていたことがあるんだ」
 彼はいつもゆっくりやってくる季節のように話し出した。
「それは実は世界は滅亡していたって話かな?」
 わたしは少しいたずらっぽく答えた。彼は少し驚いてまるで目の光を失ったかのように言葉を失った。彼は答える。
「知ってたの?」
「うん、あなたがわたしのところへ助けに来る前に実は知っていたの」
 彼は安心し、どこかさみしく言う。
「ごめん。君がショックに耐えられないと思って嘘を吐いていたんだ」
 彼は続ける。
「でもきっとそうじゃないのかもしれない。ただ僕がまだ美しい世界にいるという幻想をいだきたかっただけなんだ」
 そう言った彼の目をわたしはじっと見つめた。
「そんなことはわたしが吐いていた嘘に比べればマシよ」
 目が見えないはずのわたしに見つめられた彼は何かを感じ取り言う。
「もしかして目が見えてるの?」
 わたしは下を向き少し悩み、少し間を置き答える。
「目は見えているけど、今を見ることができないの」
 え、と彼は夜に間違えてでてきそうになった太陽みたいな顔をした。
「わたしはこの太陽の日差しを感じることができない。わたしが見えているのは一年前の滅亡の日だけ。あの瞬間からわたしの目に映るものは時間が止まってしまったの」
 そう、わたしの目は今を見ることできなくなってしまったのだ。わたしが今見ているのは滅亡前の美しかった世界のみ。わたしの見えてるのは懐かしい街で、家もビルも崩れていないし、学校だって見える。あの日咲いていた桜は永遠に散ることなく咲き誇ったままなのだ。世界の滅亡というショックでわたしには今という現実を知覚することが不可能になってしまったのだろう。わたしの脳は現実の滅びた街を見るより、思い出の中の美しい街を見続けることを選んだのだ。
「なぜ目が見えないという嘘を?」
 わたしは答えた。
「あなたと同じよ。わたしは心の奥で望んでいたかもしれないけど、今を見ることができないのがつらかった。わたしだけそんな目に合うなんて耐えられなかった。だからあなたにも今も美しい世界にいるという幻想の中で生きてほしかった。あなたは優しいからわたしが目が見えないことを知るときっと嘘を吐くと思ったの」
 彼は何も言わずにただ桜の咲くこの道のように真っ直ぐわたしを見ていた。
「ごめんなさい。今まで嘘を吐いてて」
 わたしはもう一度言う。
「ごめんなさい。今まで嘘を吐いてて……」
 わたしはもう彼を見ることができなかった。俯きただこの先も永遠に流れ続けるであろう時間のように泣いた。すると彼はいつものように優しく微笑み笑った。
「ありがとう」
 え、とわたしは思わず言った。
「僕は君といるおかげで美しかった世界を少しでも思い出し、心の中に生き続けさせれることができたんだ。むしろ感謝したいぐらいだよ。それに……」
 彼は続けて言う。
「それにそんなことは僕が秘密にしていたことに比べればささいなことだよ」
 え、とわたしはまた言った。その言葉しか言えなくなったみたいだ。
「秘密にしていたのは世界滅亡のことじゃないの?」
 彼は首を振りながら答えた。
「違うよ。もっと大事なことさ。秘密と嘘はまた違う」
 わたしは頷いた。
「驚かないで聞いてくれ」
 彼は少し間を置く。
「実は僕はもう死んでいるんだ」
 わたしは軽く頷いた。

 気が付くとわたしはさっきと変わらない姿勢でベンチに座っていた。彼の秘密を聞いてから少し呆然としていたらしい。それは頭の中のキャンパスがすべて真っ白に塗られたみたいだった。
「大丈夫?」
 彼は言う。
「うん、少しマシになったわ」
「そう、よかった」
 彼は全然死人のように見えない。足だって付いているのに、死んでいるなんて信じられなかった。でもそれはわたしの思い出の中の彼が見えてるだけだからかもしれない。
「僕は世界が死んだとき、一緒に死んでしまったんだ。そして気が付くと僕はまだこの世にいることができていたんだ。なぜだが知らないけど。君が僕を見ることができるのは僕と君の関係を神様が配慮してくれたのかと思っていたんだ」
 わたしはちょっと笑った。どうやらいつもの調子に戻ってきているみたいだ。
「でもそうじゃないんだろうね。君の目は美しいままの世界が見えている。だからそこに生きていた僕を見ることができるんだろう。世界が滅亡したことは残念だけど死んでからも君と一緒にいられるとは思ってもいなかったよ」
 わたしは死んだ彼を見つめ、彼もわたしを見つめ返し言う。
「でもそれはやっぱり違うと思う。君はいつまでも昔を見ているだけじゃいけない。今を見て、今を生きなければいけないと僕は思うんだ。だって君はまだ生きているんだもの。世界はこれから本当に復興していくと思うし、君はその力とならなければいけない」
 わたしは黙って頷いた。わたしの見えている満開の桜が少し散り始めた。
「思い出は目に映るものじゃなく心の中に閉まっておくものだと思うんだ。たまにその引き出しをそっと開けて思い出せればいいんじゃないかな」
 桜は散り、世界は実際の姿を取り戻そうとしていた。わたしの目は徐々に今を見ることができるようになってきている。それはつまり彼との別れを意味しているのだ。
「その引き出しには僕のことを詰め込んでおいてくれ。それが僕が生きてきた証のような気がするんだ。きっとその証は君が死ねば消えてしまうだろうけど、僕はそれでいい」
 彼の姿は薄くなり、その存在はどんどん希薄になり、わたしたちを包み込む風と一体化していくようにも見えた。

「ねえ、そういえばわたしのことをどう思っていたかちゃんと聞いたことなかったわ」
 わたしは最後に聞く。死んだ彼は少し考え答えた。
「死ぬほど好きだよ」
 わたしは言う。
「おもしろいこと言うじゃない」
 彼は最後に聞く。
「そういえば僕のことをどう思っていたのかちゃんと聞いたことがなかったな」
 今を生き始めたわたしは少し考えて答えた。
「別にどうも思ってないわ」
 彼は思わず笑う。
「嘘ばっかり」
 わたしと彼は笑い合い、しばらくしてその声は一人分になった。
 消えてしまった一人分の声は、いつも変わらずやってくる春の足音のようにまた聞こえてくる予感がした。
 わたしはさっきまで彼がいた場所を通り抜ける。
 わたしの鼓動と彼の鼓動が重なったとき、彼はわたしの中の一部となる。
	

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